見出し画像

「立川からはじめる未来」 9: はじめまして(5) 今やるべきことを今やらずしてどうする?

オープンして明日で3ヶ月になります。PLAY! では日々、いろいろなことを進めています。
8月下旬、研修の一環として八王子と日野の小学校の先生方の協力を得てヒヤリング調査を行い、来場者の属性、展示やサービスに対する満足度や要望を整理しました。MUSEUMではスタッフの研修、1月からのアーノルド・ローベル展、4月からの常設展と企画展の準備を進めています。SHOPやCAFEでも新商品の開発が本格化して、PARKでは今月土曜日からいよいよ大型遊具「バルーンモンスター」が登場します。来場者の期待の斜め先を行けるよう、コンテンツやサービスの開発に日々取り組んでいます。

さて、PLAY! のあり方につながる自己紹介に戻ります。たぶんいったん最後です。

2012年、二つの極端な展覧会を同時に経験したことで、その後の取り組み方を迫られてしまいました。とはいえぼくは会社員だったので、仕事をしている限りは、会社の利益の最大化に貢献しようと思っていました。

最大化にはいくつかの道筋があります。プロジェクトベースでいえば、収益性か、会社の広報やブランディングとしてなのか。短期的な利益を目指すか、長期的な視点か。商品ベースでいえば、安価でよいものを作るか、高級品にするか。プロモーション手法でいえば、広告や特典で煽るか、商品自体の満足度をアピールするのか、などなど。

当時会社に明確な方針はありませんでしたが、ぼくは何かを捨てるのではなく、バランスよく「総取り」をしたいと考えていました。中途半端ということではなくて、展覧会事業ならそれができると感じていたからです。そしてそれを叶えるために一番大切なものは、展覧会のクオリティだと考えていました。

「世界水準の展覧会を作れ」。

これは、2002年から2004年までぼくが大阪本社勤務だったとき出会った先輩、渡辺弓雄さんの口癖でした。渡辺さんは当時50くらいで、東京勤務時代は「戦後文化の軌跡展」などの伝説的な展覧会、大阪に移ってからは奈良の寺社から絶大な信頼を得て東大寺や興福寺の展覧会を次々と手掛けたプロ中のプロでした。渡辺さんは30そこそこのぼくをいろんなところに連れ行ってくれて、目をキラキラ(ギラギラ)させながら色んな話をたくさんしてくれて、励ましてくれた、会社員時代の恩人です。

日本でしか行わない展覧会に「世界」なんていう言葉が出ることが驚きでしたが、渡辺さんが手掛けた「宋磁展」や「興福寺国宝展 鎌倉復興期のみほとけ」は確かに「唯一無二」の水準でした。文化財としての歴史や重みは違うかもしれないけれど、どんなジャンルであっても、誰にもできないベストを目指すべき、という考えをこのときに教わりました。

話を戻します。2013年、「アーツ&クラフツ展」以来となる大型展「スヌーピー展」を自ら企画しました。渋谷出版企画の渋谷稔さんの橋渡しで、コミック「ピーナッツ」の日本におけるエージェントであるソニー・クリエイティブプロダクツの古川愛一郎さん、長谷川仁さんとともにカリフォルニアのシュルツ美術館を訪ね、原画の美しさとその大きさに目を奪われ、皆で「日本で見せたい!」と身震いしました。会場は森アーツセンターギャラリーという大舞台。シュルツ夫人や美術館のジョンソン館長も、日本初となる原画展で作者のシュルツさんをきちんと紹介できることに大きな期待を寄せてくれました。

この展覧会で目指したものは、「世界水準」の展覧会を作ること。そして、関係者全員がハッピーになることでした。クオリティの高いコンテンツを作ることで、会社の利益と自分が目指すもの、大勢のビジネスパートナー、そして何よりも来場者、それぞれが等しく満足を得る。それまでも、小規模で部分的に達成したことはありましたが、大きなプロジェクトでは相当に難しいことです。ただ「スヌーピー展」では可能性がありました。

その理由はまず、ぼくがプロジェクトの権限を全面的に委ねられていたこと。当時は海外展とコンテンツ系展覧会のチームリーダーでした。とりわけファインアートでない特殊な案件では、管理ラインから応援はあれど干渉がなく、「やってみろ」という状況にありました。そこに若くて意欲のあるスタッフが3人加わりました。

もうひとつは、事業リスクが単独負担だったことです。大きなプロジェクトはたいてリスクヘッジのために出資を募り、仕事を分担する委員会方式を採用しがちです。単独出資は怖さがある反面、展示やプロモーション、スポンサーの獲得、商品化など、その一切を自分たちだけスピーディーにで判断できます。思い切り突っ走る環境が整っていました。

一方で、これは最後のチャンスと思っていました。会社員として立場も案件も変化する中で、こんな奇跡的な環境はもう二度と訪れないだろうなと。後輩たちと、かつてない質と量の仕事に取り組みました。掛け声は「自分たちがいいと思うことはなんでもやろう。こんなチャンスは二度とない」。取り憑かれたようにやることをどんどん増やしていき、毎日とんでもない時間まで残業しました。

画像1

具体的に何をやったかは別に書くとして、結果は大成功でした(大勢のすばらしい協力を得ました)。当時できることの全てを注ぎ込んで出し切り、ほとんどの関係者や来場者がハッピーだったと思います。そう感じたのはぼくだけではありませんでした。朝日新聞の記者からは「お客さんがみんな笑顔で驚いた」と言われたし、当時森アーツセンターギャラリーのディレクターだった中山三善さんからも「こんなにみんなが幸せそうにしている展覧会は見たことがない」と驚かれました。実は中山さんのこの強い印象が、六本木のスヌーピーミュージアムの誕生につながります。

やり切ったのも束の間、仕事は続きます。その後待ち受けていた展覧会は、どれもやりがいのある案件でしたが、スヌーピー展ほどの自由度と可能性があるようには思えませんでした。また、後輩との関係性についても迷いが生まれていました。常々、いかに仕事が面白いか、自分で企画することが有意義か、ということを伝えていましたが、もしかしたら独りよがりの押し付けなのかもしれないと。よい仕事とは何だろうかと悶々とするようになりました。そんな中、目を覚めすことになったのは、宮崎駿さんの一言でした。

2014年に絵本「ぐりとぐら」の展覧会を企画していたのですが、会場内で展示する映像のために、作者中川李枝子さんと宮崎駿さんの対談形式の講演会を収録することになりました。ぼくは特に役割のないただの立ち会いで会場に行ったのですが、福音館のご担当の厚意で、最前列のど真ん中の関係者席に座らせていただくことになりました。

対談は緊張感のあるものでした。前年秋の「引退会見」後ではありましたが、稀代のクリエイターである宮崎駿さんの言葉はどれも強く、ひと時も目を離すことができませんでした。終盤に差し掛かり、中川さんも見学に行ったジブリの保育園に話題が移りました。司会の方が保育園を成功させた宮崎さんの先見性を讃えようと「成功を予想してたのですか?」と質問したとき、宮崎さんがかっと目を見開きました。

「今の大人は、成功するかどうかを考えてやるからダメなんです。今やるべきことを、今やらないといけないんです」

最前列にいたぼくは、宮崎さんが自分に叫んだように聞こえたのです。(正確には違う言葉だったかもしれません)。稲妻に打たれたようにぼくは固まってしまい、その後の話はあまり覚えていません。「今やらずしてどうする」。この問いが頭の中で響き続けました。

今やるべきことは何なのか。自分にできること、やりたいことは、よりよい展覧会を作ること。そのことで関係者全員をハッピーにすること。そして何より、展覧会という窓を通じて、よりよい社会をつくることに貢献したい。学生時代から会社勤めを経て、ようやく一貫した目標が見えた気がしました。そして今も、その目標は変わりません。

次回からはPLAY! に戻って、合言葉「ありそうでないこと」を書こうと思います。