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「立川からはじめる未来」 8: はじめまして(4) 7千人と75万人、2つの展覧会を通してわかったこと

2012年に「加藤久仁生展」と「マウリッツハイス美術館展」という2つのすばらしい展覧会を担当し、そのことが3年後に会社を離れるきっかけとなりました。

アーツ&クラフツ展での失敗を挽回しようと、新規企画をがむしゃらに増やしていました。大型展も担当しましたが、なんとなく迷いもあり、中規模の企画から出直そう、という気持ちでした。2005年に企画したミッフィー展が呼び水となり、エリック・カールなどの絵本展や、漫画・アニメ「ベルサイユのばら」など、それまで展覧会としては扱われてこなかった柔らかいジャンルが、ぼくの得意分野となってきました。

絵本や漫画は、本が完成形であり、作品です。本を作る素材である原画や資料は確かに貴重なものですが、絵画や彫刻のように「見せるため」に作られたものではないので、弱さがある。何のために見せるのか、そしてどう見せるか。意図や見せ方によっては、新たな価値や喜びを引き出すことができる。展覧会を作るたびに挑戦と発見があり、新しい可能性の広がりを感じていました。

そんな中、アニメーション作家の加藤久仁生さんと出会います。加藤さんは2009年、「つみきのいえ」でアカデミー賞短編アニメーション賞を受賞しました。ロサンゼルスからの帰国後、凱旋記者会見が開かれることになり、白泉社の担当編集者の森下訓子さんに誘われ東京会館に行きました。会見場に入ると、前が見えないくらいずらりとカメラクルーがひしめいていました。ふと、その後ろのスペースに飾ってある加藤さんが描いたコンテや原画に気づきました。そこでは誰も注目していない絵を見て、ぼくは展覧会をやりたいと思い、加藤さんを紹介してもらいました。

加藤さんは悩める人でした。若くして日本人の誰も手にできなかったアカデミー賞をとったことで、周囲からの期待は高まるばかり。ところが自分自身の評価と創作に対する考えにはギャップがあり、戸惑いを感じていました。展覧会は「つみきのいえ」を中心に、初期作品と新作を展示する予定でしたが、時々「こんな若輩者が展覧会を開いていいんでしょうか」と不安を口にしていました。

展覧会の締めくくりは「情景」という新作映像を予定していました。アカデミー賞受賞後初の映像作品で、加藤さんはこの作品を通じて、今後の創作姿勢や決意を示そうと静かに意欲を燃やしていました。制作は押しに押し、会場の十和田市現代美術館での展示期間中も出来上がりません。ホテルで編集を続け、レセプションの直前にようやく現れた加藤さんからUSBを手渡されました。機材がUSBのデータを読み込み、スクリーンに現れた映像は、完成に向かわない、プロセスを大切にした、思いの詰まった作品でした。「これを作るために」。すべてが氷解して思わず涙が出ました。今でも鮮明に覚えています。

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加藤久仁生展は十和田のあと2012年の2〜3月に八王子市夢美術館で開催されました。東京会場とはいえ都心から遠いこともあり、来場者数は7000人くらいでした。でも、会場に足を運ぶたびに展示室内にはほどよい具合に来場者がいて、熱心に絵や資料、映像に見入って、作品と対話をしているような濃密な時間がそこにありました。アニメーションに詳しい学芸員の淺沼塁さんが担当で、こぢんまりした会場だけれど、その場にいることでいつも温かい気持ちになりました。

この数ヶ月後に開幕した「マウリッツハイス美術館展」は、対照的な展覧会でした。日本で最も人気のある画家フェルメールが描いた、世界でも最も有名な絵画のひとつ「真珠の耳飾りの少女」を目玉に、それ以外にも名品がそろった素晴らしい絵画展でした。(この展覧会に関わった縁で、植本一子著『フェルメール』を2018年にナナロク社と共同で作りました)。

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展覧会の企画段階からメインの担当者となりましたが、開催が決定したあとで少し躊躇しました。50万以上の来場者を期待する超大型展に臨むにあたり、展覧会の開催意義や自身のモチベーションをどこに持っていったらいいのか。しばらく考えた結果、「二度と破れない来場者数を記録し、質的にも歴史に残る展覧会にすること」に決めました。そうとなれば、目標に向け自分を動かしていこうと思いました。

80+20=100。

目標は100万人。モナリザ級に著名な作品なので、まずは美術ファンを80万人、着実に集める。さらには社会現象化することで、20万人のプラスアルファを積み上げる。100万人の動員を達成するイメージが固まり、一気に動き出しました。

「世界で最も有名な少女が来日します」「狙い目はズバリ夕方です」「ライバルはズバリ、上野のパンダ!なんちゃって」。

前代未聞の煽りコピーをつけたさまざまな広告を作り、交通広告や新聞で、大々的なキャンペーンを展開しました。女優の武井咲さんが絵の中の「少女」に扮し、新聞の全面広告やスポットCMを打ちました。衣装づくりには文化服装学院に時代考証を含めて協力いただきました。

展覧会と直接関係ない「FEEL VERMEER」というブランド(「LIFE&ART」の発展形とも言えます)を立ち上げ、虎屋やコクヨ、日比谷花壇など名だたる企業に参加してもらいました。フェルメールの上質さに共鳴する商品を一緒に開発し、商品は各企業の販売ルートと展覧会で扱い、フェルメールの名を展覧会とは別ルートで広げていく試みでした。虎屋の羊羹「蒼ノ調べ」は大ヒット商品となりました。

オランダとの縁では「真珠の耳飾りのミッフィー」というコラボレーションを商品化しました。オランダといえば自転車、ということで、日本の美術館で初めて自転車を販売するなどオランダのアイテムをとり揃え、展覧会の楽しみを広げる提案を行いました。閉館時間後に来場者数を限定した1人5000円の贅沢な「プレミアム鑑賞会」も企画しました。

ところが、これほどまでにあの手この手を繰り出し、混雑は自明だったにも関わらず、日時時間制チケットの導入を検討しませんでした。現在はコロナ禍で各所で利用されていますが、当時はほとんど使われておらず、「人気の展覧会は行列をつくってこそ」とすら思われていました。

展覧会は東京都美術館のリニューアルオープン記念とも重なり、会期当初から大勢のお客さんが会場につめかけました。会場内は熱気に包まれ、ショップも大混雑。建物の外には行列ができ、報道は相次ぎ、目指していた社会現象のごとき状況になりました。

結果75万人が会場に足を運び、100万には及ばなかったものの、空前の成功を収めました。けれどもぼくは会期中、会場に足を運ぶことをためらっていました。「真珠の耳飾りの少女」の展示室にいたくなかったからです。

「立ち止まらずご鑑賞ください」

小ぶりな「真珠の耳飾りの少女」の絵を見るために、1日1万人がつめかける。そうすると、それぞれが鑑賞できる時間はごくわずかです。会場の運営スタッフはいつも申し訳なさそうに、お客さんに声をかけていました。こうした事態はシミュレーション通りで、歩きながら何度も見ることができる工夫を施してもいました。けれどもスタッフはクレームを受け続け、お客さんにも不満が残り続けました。この事態を招いた張本人は自分だったのです。会場の中にいると、この矛盾をつきつけられ、逃げ出したい気持ちになったのです。

加藤久仁生展に足を運んだ7000人は、自らの意思で会場に来て、大切な何かを望むだけ持ち帰っている。一方のマウリッツハイス展は、加藤展の100倍、75万人もの人が集まったが、混雑の中で満足に作品を見ることができたのだろうか。しかし社会現象的なイベントに参加したという達成感もあるかもしれない。2つの展覧会を一概に比較することはできません。ただし自分にとって、どちらの展示室内のほうが居心地がよかったか、ということははっきりしていました。

一人一人が作者と遠くで意識を結んでいる。そんな尊い場を、ぼくはより多く作りたい。そしてその道は、新聞社の事業部員としては求められていない。この2つの展覧会を通じて、課題がはっきり浮かび上がりました。

(宮崎駿さんのエピソードにたどり着かなかったので、すみません、もう1回プロフィールを続けます)